前田利家について調べていると、「柴田勝家を裏切った」という話が出てきます。
私も最初は、利家が戦いの途中で急に勝家を見限り、秀吉側へ寝返ったのだと思っていました。
ところが賤ヶ岳の戦いを詳しく見てみると、そう単純な話ではありません。
結論からいうと、前田利家は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家方から戦線を離脱し、その後、羽柴秀吉に従っています。
そのため結果だけを見ると「裏切り」と見えるのですが、利家は柴田勝家だけでなく秀吉とも以前から深い関係があり、当時の織田家内部の複雑な人間関係も背景にありました。
この記事では、前田利家がなぜ柴田勝家から離れたのか、賤ヶ岳の戦いで何が起きたのか、秀吉との関係も含めて分かりやすく解説します。
前田利家は本当に柴田勝家を裏切った?
まず押さえておきたいのは、「前田利家が柴田勝家を裏切った」という表現は、少し単純化されているということです。
1583年の賤ヶ岳の戦いで、前田利家は柴田勝家側として出陣していました。
しかし戦況が柴田軍に不利になると、利家は戦線を離れ、自分の領地である越前府中へ退却します。
金沢市図書館が紹介している『加賀藩史料』には、
天正11年4月21日、柴田勝家の軍が敗れ、前田利家が府中へ退却したこと、
さらに4月25日には、利家が羽柴秀吉の軍に従って加賀金沢へ入ったことが記されています。
つまり、
勝家側で戦う
↓
途中で戦線を離れる
↓
その後、秀吉に従う
という流れだったわけです。
結果だけ見れば、勝家から秀吉へ乗り換えたように見えます。
ただ、戦場で突然敵側へ攻撃を始めたような、典型的な「寝返り」とは少し違います。
なぜ前田利家は戦線を離れた?
では、なぜ利家は柴田勝家側から離れたのでしょうか。
ここは史料だけでは利家本人の本心を断定できません。
そのため、「これが唯一の理由」とするのは危険です。
ただし、いくつかの背景は考えられます。
理由1 秀吉とは以前から親しい関係だった
前田利家と羽柴秀吉は、もともと織田信長の家臣仲間でした。
二人は若いころから交流があり、家同士の付き合いもあったとされています。
つまり賤ヶ岳の戦いでは、
「昔からよく知る秀吉」と
「上司に近い立場だった柴田勝家」
の双方が敵味方に分かれて戦っていたことになります。
私はここを知ると、単純に「勝家か秀吉か」という選択ではなかったことが分かりやすくなりました。
現代で考えても、長年付き合いのある二人が争って、そのどちらかにつかなければならない状況です。
利家にとっては非常に難しい立場だったはずです。
理由2 柴田軍の敗色が濃くなった
賤ヶ岳の戦いでは、柴田方の佐久間盛政が秀吉方の陣地を攻撃します。
一時は柴田軍が優勢になりますが、秀吉が素早く軍を戻したことで状況が変わります。
秀吉軍の反撃によって柴田軍は崩れ始めました。
この段階で前田利家は戦線を離れています。
そのため、
柴田軍が敗れる可能性が高いと判断した
という見方もあります。
戦国時代の武将にとって、敗れる側に最後まで残れば、自分だけでなく家臣や領地まで失う可能性があります。
利家には自分の家を存続させる責任もありました。
理由3 秀吉と戦う意思が弱かった可能性
前田利家と秀吉には以前から関係があったため、利家自身が秀吉と徹底的に戦うことを望んでいなかった可能性も考えられます。
実際、賤ヶ岳の戦いのあと秀吉は利家を激しく処罰していません。
むしろ利家は、その後秀吉政権の中で重要な大名になっていきます。
もし利家が完全な敵として秀吉と激しく戦っていたなら、その後の扱いも違っていた可能性があります。
ただし、ここは本人の明確な証言が残っているわけではないため、「最初から秀吉につくつもりだった」と断定することはできません。
柴田勝家と前田利家の関係は?
では、柴田勝家と前田利家の関係は悪かったのでしょうか。
そう単純でもありません。
利家は織田信長の家臣として活動し、北陸方面では柴田勝家のもとで行動しています。
そのため勝家は、利家にとって軍事的な上司に近い存在でした。
勝家、佐々成政、前田利家らは北陸方面の攻略を担っています。
利家が能登を与えられたのも、この時期です。
つまり利家は勝家と長く同じ陣営で戦ってきた武将でした。
だからこそ、賤ヶ岳で勝家から離れたことが後世に「裏切り」として語られやすくなったのでしょう。
そもそも賤ヶ岳の戦いはなぜ起きた?
賤ヶ岳の戦いの背景には、1582年の本能寺の変があります。
織田信長が明智光秀に討たれたことで、織田家の後継者をめぐる問題が起こります。
そこで勢力を急速に伸ばしたのが羽柴秀吉でした。
秀吉は山崎の戦いで明智光秀を破ります。
一方、織田家の重臣として長く活躍してきた柴田勝家も大きな力を持っていました。
両者の対立は次第に激しくなります。
そして1583年、近江国の賤ヶ岳周辺で両軍が激突しました。
これが賤ヶ岳の戦いです。
国立国会図書館のレファレンス情報でも、天正11年3月から4月にかけて羽柴秀吉と柴田勝家が戦い、4月22日に勝家が自刃するまでの動きを確認できる史料が紹介されています。
前田利家が離脱すると柴田軍はどうなった?
柴田軍は急速に崩れていきます。
前田利家が戦線を離れたことで、勝家側の戦力がさらに減りました。
柴田勝家は本拠地である北ノ庄城へ撤退します。
その後、秀吉軍が北ノ庄城を包囲。
勝家は妻のお市の方とともに自害します。
ここで柴田勝家と羽柴秀吉の争いは、事実上決着しました。
そして秀吉は、織田信長の後継者争いの中で圧倒的に優位な立場となっていきます。
前田利家はその後どうなった?
賤ヶ岳の戦いのあと、前田利家は秀吉に従います。
そして利家は加賀・能登を中心に勢力を拡大していきました。
のちには「五大老」の一人に数えられるほどの大大名になります。
豊臣政権では、徳川家康と並ぶほど重要な存在となりました。
賤ヶ岳での判断は、前田家にとって大きな分岐点だったともいえます。
もし利家が柴田勝家と最後まで運命を共にしていたら、加賀前田家のその後はまったく違っていたかもしれません。
「裏切り」というより生き残るための判断だった?
前田利家の行動を見ると、「裏切り」の一言だけで説明するのは難しいと感じます。
利家は柴田勝家とも深い関係がありました。
一方で秀吉とも以前から親交がありました。
さらに、自分の家臣や領地を守る立場でもあります。
その状況で柴田軍の敗色が濃くなりました。
そこで戦線を離れ、秀吉に従う道を選んだ。
戦国武将として考えると、かなり現実的な判断だったとも考えられます。
もちろん勝家側から見れば「見捨てられた」と感じてもおかしくありません。
この見る立場によって評価が変わるところが、前田利家と賤ヶ岳の戦いの面白いところです。
まとめ
前田利家は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家側として出陣しましたが、戦況が悪化すると戦線を離れて越前府中へ退却しました。
その後、羽柴秀吉に従っています。
そのため後世には「柴田勝家を裏切った」と語られることがあります。
ただし実際には、
- 利家は勝家のもとで長く活動していた
- 秀吉とも以前から親しい関係だった
- 賤ヶ岳で柴田軍が不利になった
- 利家は途中で戦線を離脱した
- その後は秀吉に従った
という複雑な流れがあります。
私は調べてみて、「勝家を裏切って秀吉に寝返った」と一言で覚えるよりも、二人の有力者の間にいた利家が、前田家を存続させるために難しい判断をしたと考える方が分かりやすいと感じました。
賤ヶ岳の戦いは秀吉と勝家だけでなく、前田利家のその後の人生を大きく変えた戦いでもあったのです。


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